村田選手の新たなるスタート

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2日、試合後におこなわれた村田亙選手の共同会見の様子です。
大勢の報道陣の拍手が出迎える中登場した村田選手は、激闘が刻まれたサックスブルーの
ジャージではなく、きりっとしたスーツ姿。冗談を交え、時折笑い声が響く空間は、
村田選手の人柄と温かい目で見守る報道陣の優しい空気に包まれていました。


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――まず、村田選手からひとことお願いします
村田亙選手
「僕がメジャーになったのは、専修大学3年生で初めてレギュラーになってからだと思います。
そのあと、東芝で9シーズン、フランスで2シーズン、そしてヤマハで7シーズン。
大きなケガもなく、無事に終えることができました。また、今日の相手が東芝というのも
何かの縁かもしれないし、本当は試合に勝って終わりたかった。でも、負けても
あれだけ大勢の温かいファンの方々がセレモニーまで残っていただき、当時の
東芝の上司とか、たくさんの東芝ファンの方からも声援をいただき、本当に感謝の
気持ちでいっぱいです。ありがとうござます」
――今日は微妙な点差で出場しましたが、与えられた時間でどんなことを
考えプレーしましたか
村田亙選手
「出場した時は点差が少しついていましたが、1トライでもとりたいという気持ちで、
とにかくいいボールを繋ぎたかったなと。チャンスがあれば持ち込んでいきたかった
ですね。当然、いろいろとやりたいことは今日だけじゃなくあるのですが、とりあえず
選手としては今日で終わり。今後は指導者としても、この舞台に戻ってこれるよう、
勉強していきたいと思っています」
――選手としてのコンディションは
村田亙選手
「絶好調です。最後の最後で体は絶好調で、気力も体力も落ちていません」
――今シーズンは、ケガが多くなったことが自分に対するメッセージと言われていました。
その中で、こんなケガをするようになったと思う部分は
村田亙選手
「僕は体が柔らかいので、基本的に顎から下のケガについてはすぐに戻ります。
それだけ自己管理をしっかりしてきたし、お前は水泳部かというぐらいプールへ通いました。
そこについて、全然問題はありませんでした。ところが、顎から上の部分については、
東芝でも脳震盪の多かった方でしたが、それに加え昨シーズンは都合3回ぐらい負傷
したし、そのあたりがちょっと増えだしたかなと。あと、顎から上の部分を切ったり
したことで、僕は大丈夫と思っていても、トレーナーやドクターからストップの
かかる期間が長くなってきました。ケガの箇所はメディカル陣も心配だったと思います」
――直接的に引退を決めたのは
村田亙選手
「引退というのは僕には無い、と思っていましたが、特にこの2~3年は、レギュラーで
無ければ引退しようという思いがありました。その思いを抱く中で、今シーズンは
矢富が入団してくると聞き、最後は彼と勝負をしようと。また、佐藤と岡も加えての
4人体制となり一緒にプレーし、それぞれと勝負して出られなくなったら引退だろうなと。
それは自分でもわかっていたし、その時点で自分の役目は終わるのかなと思っていました。
一応家族の中では、今年1シーズンを精一杯やるということは決めていました。
ヤマハジュビロの山岸GMには、トップリーグが開幕してから1・2試合終わったあたり、
11月ごろに伝えたと記憶しています」
――今日、ノーサイドの笛を聞いた時は
村田亙選手
「終わってしまった、もう試合をすることもないんだ、と思いましたね」
――引退ということはトップでの現役引退を意味するのか、それともクラブチーム等で
続けるのか
村田亙選手
「プレイングコーチのように、教えながら一緒にやりたいとは思いますが、トップリーグで
プレーすることはないと思います。クラブ大会に出る選択肢ですか、そちらへ出た方が
もしかして寿命が縮むのかも、なんて。アジアバーバリアンズは出ようかなと思っています」
――これまで一番印象に残る試合は
村田亙選手
「やはり、東芝が初めて日本一になった時の三洋戦です。秩父宮も札止め満員、
開始何秒かで僕もトライを取りました。初めての日本一、社会人でナンバーワンに
なった試合。あの試合があったから、そのあとが続いたのかなと思います」
――村田選手にとって磐田とは
村田亙選手
「フランスのバイヨンヌから来た時は、同じ匂いがすると思いました。バイヨンヌは
第二のふるさとですが、ここに7シーズン住んだことで、磐田は第三のふるさとに
なったのかなと思います」
――40歳という年齢までラグビーを続けてきた一番大きな理由は
村田亙選手
「僕がラグビーを大好きで、ラグビーを愛していたからこそ、40歳という年齢まで
出来たんじゃないかと思います。続けてこれたのは僕だけでなく、大勢のファンの
支えもあり、もちろん妻や子供達の支えもありました。みんながまだ村田亙に期待している
以上、僕も続けられる限りずっと続けたいと思っていたら、いつの間にか40の大台に
乗っていました」
――グラウンド脇で見守っていたご家族は、ノーサイドの瞬間に涙をこぼされていました
村田亙選手
「あの妻がいたからこそ、ここまで続けてこれたと思うし、子供達には発表の2週間
ぐらい前に『パパ、今年でやめるんだよ』と言いました。でも、『何でやめるの、
全然元気じゃん』と言われましたね。けじめだからやめるんだ、ということを伝えたら、
ものすごく寂しい顔をしていました。今日は子供達なりにわかっていたと思いますね。
ここヤマハへきてから7シーズンの中で、我が家は、新たな命をふたり授かりました。
4人の子供と妻は、これからも守っていかなければならない。そういった意味でも、
これからは第2の人生を作っていきたい、そんな気持ちでいます」
――あの妻がいたからこそ、ここまでこれたというのは
村田亙選手
「彼女はものすごい強くて、フランスへ行く時も悩んでいる僕の背中を
「行こうよ」と押してくれたり、日本へ戻りヤマハを選んだ時も
「日本代表の為にやることも使命なんじゃない」と言われました。それ以外に、
試合前はマッサージをして針をうってくれたり、二人三脚というか、家族全員で
ここまでやってきたという感じです」
――ジュビロ磐田の中山選手から、今日はどんな言葉がありましたか
村田亙選手
「大体いつもは僕からメールを打つのですが昨日、久しぶりに彼からメールが来ました。
『最後の底力を見せてやれ』みたいな文章だったと思います。彼は僕が入った7年前から
『俺は40までやる』と言ってたんです。その時僕は『俺はそんなにできないよ』と
思いました。でも、彼がいたから、グラウンドこそ違えど、お互いに切磋琢磨しあった
ことで、ここまでやってこれたと思います。ゴンのおかげ、本当に感謝しています」
――お話していただける範囲で、今後の予定を
「いちおうオール専修、あるのかな。まだ話は来ていませんが出ることがあれば、
本当の引退試合になるのかもしれませんし、どうでしょう。とにかく、今日が試合としては
最後だと思っていました。7人制のコーチも年末にミーティングはありましたが、
まだ流動的だと聞いています。指導者としてというか、大まかなプランで言えば、
僕はヤマハで選手のかたわらスポーツ財団にも力を貸しています。先週、第2回
助成金制度の面接官として参加してきました。この財団はそういった彼ら、彼女らに
夢や希望を与えることができる。ここまでやってきたことも踏まえ、もっとこの静岡に
ラグビーを広げていきたい、という計画も無きにしもあらずですが、全てはシーズンが
終わってからということです、これぐらでしょうか」
――最後に村田選手からメッセージを
村田亙選手
「僕は小学校1年生からラグビーを始め、今シーズンで34年目。ラグビーで人間形成
されてきたと思います。だから今後もラグビーのみならずスポーツに携わって、
みんなに恩返しをしていきたい。ラグビーって、本当に痛みがわかるスポーツです。
最近の子供達はテレビゲームに走ったり、なかなか外で遊ぶスペース自体もなくなって
きています。だからこそ、静岡だけではなく、もっともっと全国にラグビーを広めたい。
それはタグラグビーでもいいし、タックルありのラグビーでもいい。そういうことを
教えていきたい。それができていけば、未来は明るいと思います。とにかくラグビーに
携わっていきながら、プロモーションや普及活動に目を向け続けていければと思います。
本当に、ありがとうございます」
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惜しみなく送られる拍手の花道を通り、会見場をあとにした村田選手。その拍手は
「お疲れ様」「ありがとう」「これからも期待していますよ」と、新たな旅立ちに向けて
送られたエールだと思いました。
記録に、そして数多くの方の記憶に残る村田亙選手のプレー、熱い想い。
新たな道を歩みはじめるためにスタートを切った姿を追いかけ、これからも応援していきます!

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